マッナウ1R記録
【メンバー】
L 4年佐藤 SL3年中島 3年上釜 柿﨑 2年峯岸 新人浦林 木村 福地
【ルート】
8/2(日) 羽田空港=稚内空港―R238―宗谷岬―稚内森林公園C0
8/3(月) C0―野寒布岬―r254―r106―鏡沼海浜公園C1
8/4(火) C1―R232―初山別―羽幌サンセットビーチC2
8/5(水) C2―R239―霧立峠―R275―ほろかない湖公園C3
8/6(木) C3―R275―ヒマワリの里―r94―r47―r57―神居古潭―R12―旭川駅
【気象】
R前半は曇り時々霧雨、R後半は曇り時々快晴
【コース概要】
8/2(日) 58㎞、183mアップ、4h40m
8/3(月) 78㎞、146mアップ、5h40m
8/4(火) 64㎞、417mアップ、4h20m
8/5(水) 94㎞、741mアップ、8h20m
8/6(木) 108㎞、407mアップ、8h
総計 402㎞、1894mアップ、31h
【概念図】
【行動】
8/2(日)
本Rは道北を稚内から旭川に縦貫し、3活動で北から南へとルートを繋ぐマッナウレラルートの第1走者的役割を担っていた。初日は8時半に羽田空港集合である。新人らは比較的早くから集合していた。銀マとウレタンでシートステイからリアディレーラーをきれいに巻けており関心する。これならディレーラーハンガーをあらぬ方向に曲がる心配も軽減されるというもの。本当であればハードケースで包むのがよいだろうが、如何せんそんなお金もない。第一、置き場所に困ってしまう。一連の係チェックも終えて、写真撮影。古橋と山下が見送りに来てくれる。また大池コーチが来てくださる。非常に嬉しい。羽田空港を無事通過し、空港の端にリムジンバスで連れていかれる。なお、このとき、自転車オイルを持参していた峯岸が引っ掛かり、没収されてしまう。手荷物で預けるよう再度伝えるべきだった。合宿中はたまたま持参していた中島のオイルでやりくりした。乗り込んですぐ、歌舞伎を模した避難案内が流れ、出発する。後に引っ張られる加速感はいまだ慣れない。1h30mのフライトの後、稚内空港へ着く。1230.機内から出ると少し肌寒い。それくらいである。最北の地にいるのだという感覚は今一つ感じられない。
稚内空港で輪行を解き出発する。空港には空気入れが置いていなかった。預け入れの際、タイヤの空気を抜く場合は、簡易空気入れを持参、または空港に空気入れがあるか今一度確認するのがよいと思われる。1330に出て、さっそくルーファイにミスが出る。Pwの絶対数はやはり足りなかったかと反省。天気は曇り。それ以上に北東から打ち付ける強い風にケイデンスも落ちてしまう。時に木村が風にあおられ、非常にヒヤッとする。ホイールのハイトが高いのも一因だろうが、線が細いのも原因かもしれない。トップが時速9㎞代で走っており、少し危なく感じたので、押し出し鉛筆方式でトップを次々と入れ替えさせながら走る。新人も後ろに上級生をつけながらトップをとる。ロード競技だとよくこのような形態で走っているのでこれを参考にした。時折、工事のトラックが高速で駆け抜けていく。関東じゃあまり見られない。日本最北のコンビニ・セイコーマートで一本。すべてがだいたい日本最北を名乗っている。左手は冬ほどではないが灰褐色の日本海。小雨が打ち付ける。右手は海岸段丘。北海道らしいなあと思っていると、赤い灯台が遠くに見える。あれが宗谷岬か。
宗谷岬で一本。バイクライダーが多い。止まればそこまで風は吹いていないように思うが、はて。「はるばる来たぜ函館」どころか、秒速で宗谷岬に着いてしまいいいんだろうか。まあこんなものだろう。ここが海の分岐点。何となく明るい方と暗い方が分かれている気がする。デンマークには3つの海の交差点があるとか。とくに樺太の方は見えない。かつて稚泊航路が出ていたころはここの往来も活発だったらしい。青函連絡船の船もこっちで使われていたとか。見えないそこは今ロシアである。みな思い思いに写真を撮るなどして過ごす。やはり日本最北のGSがあり、ここで給油していく。
宗谷岬から稚内までの南下は、行きとは打って変わって、高速で抜けていく。20㎞後半くらいで風に乗る。峯岸も調子が出てきたようだ。その後ろ浦林、柿﨑はぴったりとくっつき離れるそぶりを見せない。木村は上下に揺れながらうんうんと走っている。行きの半分の時間で稚内空港までやってくる。スーパーに連れて行ってもらうため、ここでトップを柿﨑に変える。R238を激走する。ここの区間が今回すべてのRを通して一番平均速度が速かったように思う。常に28㎞後半を示すメーター。誰かちぎろうとしてるんじゃないかと上釜と話す。きつそうなメンバーはいないので維持。みな今日のラストスパートということで踏ん張る。快走。
スーパーで食糧買い出しを終えて、森林公園へ上がる。ここの区間が今日のハイライトだった。木村の自転車が重いということで自分のロードとバイクを交換する。200アップ。ひいひい言いながらなんとか到着。テントはクリアならず。
夜飯を囲んで睡眠。女子部員が集まって活動することがあまりなかったので楽しそうである。夜は雨が降り続け、タープに水が溜まってしまった。あまり眠れない夜だった。
一点、機内持ち込みが出来なかったチャッカマンを買いだすのを忘れてしまった。たまたま隣のテントの方が貸してくれたからよかったが、反省点である。
8/3(月)
4時に起床する。朝の段階でもまだ小雨。暗い中テント類を片す。ラーメンをすすり、体操をして、525出発。最初の市街までの下りは慎重に行く。路面は濡れており神経を使った。かつて高校生だったころバンドを組んでいたのだが、その時コピーしたバンドがここの出身だった。『いつか迎える恋の寿命を先へ先へ先延ばして』、ハミングしながら走る。あれからもう4年か。
北に針路をとり、野寒布岬まで至る。どうもこの辺は鹿が多い。一応人家の立ち並ぶ区域なのだが、なんでもなさそうな適当な顔をして草を食んでいる。食事中でしたか、これはどうも失敬。イルカのランドマークを横目に針路を大きく南へと変える。
254号線からは特に鹿は見えなくなる。時折、原野の中でぴょこぴょこ耳を動かすと思いきや枯れ木だったりする。独特な形状をした風車のあたりで一本。
次の一本の前に抜海駅に寄ってもらう。日本最北の無人駅ということで有名な駅だが、乗降客があまりに少なく、廃止の話がつい最近まで出ていた。幸い当分存続することになったらしいが、リミットはすぐだろう。1970年代頃の路線図と比べれば、今や歯抜けである。寂しいことよ。駅は落書きが至る箇所に見える。モラルとして良くないのだろうが、精神的高揚の歴史が伝わってくる。1990.8.12.来訪!アキ君♡ハル,forever、みたいな。
延々と続く106号線。オロロンラインはこの一帯に生息する鳥の名前に由来するらしいが、特段それらしき黒い影は見えない。単調な一本道かと思えば、妙なアップダウンも時々現れる。段丘にしては局所的すぎる気もするが、いいアクセントになる。
北海道のルートを計画する際は、信号機が非常に少ないこと、平坦な道が続くことを考慮し、普段関東近辺でルートを引くよりも時価名足で進める距離が延びる点留意するとよいと思われる。平均して我が部では15㎞/hを基準に計画作成してきたが、必ずしもそれが今回は当てはまらなかった。現に行動が18~21㎞/h程度で推移すること、また大半の日程が午前中で終わってしまいマージンが些か過剰だったことが挙げられる。もちろん、新人の状態、その代の方針や隊の実力、さらには距離を延ばすことによる部員の体力的負荷上昇、またマージンへの影響等考える点は多いので、一概に計算値を引き上げるのがよいとは言えないが、検討の余地はあるだろう。
稚咲内で一本を取る。わくさかないと読むらしい。天候が良ければ、対岸に日本海にそびえる利尻富士が見えるはずだが、どうもうまくはいかない。いつか利尻でスキー滑ってみたいと思う。福地がこの道の単調さについて、途中で10㎞くらい足されてもわからないと言っていた。そう思う。
サロベツ原野を左手に快走する。トラックが多い。途中で荷台から土がどさっと落ちたときは驚いた。風車が28基並ぶ。遠景からは一本の高層タワーのように思えたが、近くで見るとなかなかどうして迫力ある。28本の電気生成ツリーが林立する。通過には相応の時間がかかった。天塩川を渡るとまもなく鏡沼海浜公園の表記が見えてくる。天塩川を渡りようやく北海道に来た感が出たと福地が言う。スーパーなども見え、久しぶりの町だ。
1115に到着し、テント設営。広々した開放的な場所にダンロップ。気温がかなり上がっており、北海道らしくない。ライダーが次第に集まってくる。食当買い出しまで自由時間とする。温泉や洗濯などして過ごす。
食当中一度、空気が吹き上げ、MSRから火が大きく上がったことがあった。幸い火傷はなかったが、今後も続くようであれば、修理又は全面的な買い替えを推奨したい。上ミ、全ミを終えて2100に就寝。200頃にサーっと雨が降ってきてシュラポンしていた峯岸がタープに入って、またでていく。夜の雨は沿岸地域の宿命か?
8/4(火)
400起床。朝露に濡れるテント。朝の食当で火が上がることはなかった。530手前に出発。232号を今日はひたすら下る。一度内陸の方に入り、牛やらが現れてくる。天塩はシジミ貝がよく採れるらしい。
6時半に遠別の道の駅に着く。営業時間は4時間後。富士見を冠しているが、薄くすそ野が見えるのみである。なかなか恥ずかしがり屋らしい。柿﨑はコーヒーを飲んで目を覚ましている。遠田さんもよく飲んでたなあ。国鉄羽幌線沿いを走り一路南へ。稚内から留萌まで鉄道が走っていたとは、今思えば信じがたい。
丘陵がこのあたりで多くなってくる。きつくはないが遠景から見るとちょっと気合を入れるくらいの坂である。トップから下っていると海に飛び込んでいくような感覚に至る場所があった。合宿中はこことあと能取岬の下りが海を見渡しながらのダウンヒルだった。爽快である。初山別の道の駅に745に着く。到着があまりに早くなりそうなので、8時半までフリーに。ここもまだ空いていない。ヒマワリが咲いていたらしい。柿﨑の名前の由来だとか。それぞれの名前の由来話が始まる。
232号線を下り、950に幕営地予定のはぼろサンセットビーチにたどり着く。快晴で、肌がひりつく感覚がある。コロナの影響で本年は海水浴場を開設していないらしい。テント設営をして休憩する。行程も折り返しということで、これを祝して海鮮丼を食べるなどする。初めてウニがおいしいと思った。その後は思い思いに過ごす。海でだらだら泳いだり、温泉に行ったりして自由を満喫する。
再集合して食当。スパゲティかなんかだった。暮れなずむ夕日。けだるげな陽光。夏だ。夜は花火をする。やはり線香花火が面白い。和紙の先が丸く形状を変え、ぱちぱちと音を立てながら、瞬間果て落ちる。花火は破壊の芸術だと誰かが言った気がする。こと線香花火に限ればその余韻に対してではなかろうか。
8/5(水)
夜間ばたばたと風音がして、430。外に出るとタープは取り払われ、寒そうにうずくまる人。昨晩の雨は浦林や上釜を濡らしたらしい。タープの一角も風でほどけたらしい。悲惨である。幸い朝方にかけて弱雨になったが、どうもタープを張る位置が悪かったかもしれない。来年は人数分のテントを持っていくのも十分考慮してよいと思う。
浜辺から自転車を上にもっていき、体操。集合時間がそろわず注意を入れる。540に出発。天気はぐずついた状態が続く。南風の影響かトップ峯岸のスピードが落ちているように思う。代えずに苫前を過ぎ239号に出る。日本海とはここで分かれる。農作物がぼうぼう生える中一本。全体のテンションが下がり気味だが、福地は今日も元気である。余裕っすよ!
古丹別の静かな集落を通り過ぎ、緩やかに峠越えに入っていく。久方ぶりの峠越えだが、380m程度しか上がらないのでそこまで足を使わない。古丹別の原生林をゆっくりと上がっていく。路面が濡れているが路線の規格はそれほど悪くないので走りやすい。霧立峠まで残り150アップになった時点で、体力に余裕がある福地に柿﨑・上釜をつけて先に向かわせる。峠の構成は最後が急に上がるイメージである。途中峯岸のフロントディレーラーでギアを変えられなくなる。ケーブルの不良と考えられるが、修理方法がわからない。とりあえず走行はできるので手動でギアを合わせてから再開する。1000に霧立峠にたどり着く。特段見晴らしはなくガスっているが立派な標識を前に写真を撮る。
観月国道と名を変えて275にぶつかる。針路を再度南に変えて下る。峠の下りはいつだって最高である。緩やかなダウンヒルを楽しむ。やせた土地でもそばはよく育つということで一帯はそば畑である。白い小さな花を咲かせる。日本一の生産量を誇ると聞いては食べずにはいられない。幌加内の道の駅でずるずるとそばをすする。非常にうまい。カロリーもそれなりにあるので自転車向きである(100gあたり273kcal、米は356kcal)。
国鉄深名線の遺構をちらほら過ぎ去る。近辺の朱鞠内湖では日本の最低気温を出している。冬道路が雪に閉ざされると住民の足が無くなるという理由でJR民営化後も存続していたが、並行国道(今回のルート)の整備が進んだこともあり、95年に廃止された。
道の駅を出てすぐに緩い峠があり、そこから幌加内の市街へはすぐである。気温はこの日も高い。買い出しをしてから最後の幕営地に至る。1400手前到着。
目の前はダムがあり、人造湖のほろかない湖が見下ろせる。カブトムシが落ちている。テントは一発クリアであった。夕食は麻婆ラーメン。非常にうまい。新人の腕がよいのか、食当見の指示が的確なのか。夜寝る準備をしていると、柿﨑から福地の体全体に蕁麻疹が出ている旨報告を受ける。とりあえず様子見として、明朝の時点で腫れが引かなければ病院へ向かわせることにした。
久しぶりに雨の降らない夜。3連続雨の中でも文句をあまり聞かないのは、我慢しているからか、はたまた気にしてないだけなのか。
8/6(木)
1R最終日になる。稚内ははるか遠い日々に思われる。たかだか3日前なのに。新人は最終日まで崩れなかった。食当は万全。撤収も時間内である。テントが課題だったが、これからも精進してほしい。527発。本Rではじめて一本目からサングラスをかける。縦に長い影。ニベアかなんかを塗る上釜。とりあえず275号に戻って南下を続ける。幌加内峠を上がり、川沿いを緩やかに落ちていく。初めて旭川の表示を見る。40㎞程度で着くようだが、我々はヒマワリのためにもっと距離を稼ぐ。雨竜川を走る。隊員の調子がよさそうだったので98号との分岐まで行くよう指示したが、これは長すぎた。セコマで一本。ディズニーかなんかの話をする。
朝方もらった塩分タブレットを摂る。留萌本線とクロスし、北竜に入る。サンフラワーパークで一本とする。845。北竜のひまわり畑は日本一大きいらしい。北海道に来てから、日本最北の…とか、日本最大の…とか言った修飾をよく見る。自転車でパーク内を走るが、中々広い。歩きでは少しきついくらいである。圧倒的なものを前にすると変に笑いがこみあげてくる。これは敵わないとか、よくもまあとかいった感情である。ここは一見の価値があるように思う。青い空。黄色い海。
94号から47号、57号と次々に乗っていく。並行する函館本線とともに直線路が10㎞続く。石狩の平野を走り、旭川の手前・神居古潭に着く。1135。じりじりと暑い。アイスなど買い求める。みな溶けそうだ。かつての神居古潭駅を見て回る。3両の蒸気機関車が縦列している。奇岩が立ち並ぶ中でほっこりと小さな駅が出迎えてくれる。昔の線路を整備しなおしてサイクリングロードが整備されているらしい。
最後旭川駅まで一路目指す。春志内トンネルが2000m弱あるので、側道を回っていく。歩行者自転車用で整備されているのでスピードには注意する。国道12号に乗って市内へ。13時手前に春光台公園にたどり着く。余は満足じゃ。そちは如何ばかりに。
夜、大雪縦走を終えたスムメンバーと合流し、装備移動をかける。自転車隊が市内中を駆け回ることになったのは上級生の情報共有ミスだった。反省である。
総評
道北を時間をかけながらゆっくり南下するルートを今回のRで踏んだ。計画策定にあたっては次期Lとなる3年の意見を大きく汲み取り(9割9分そうである)、本Rでは4年独りよがりのルートを組まないように気を付けた(3Rは逆に私がほぼルートを引いた)。例年であれば複数の4年がいるところだが、今回1人であり、様々な意見を組み込みたかったためである。結果として3年のルート作成の力をつけられたのではないか。また春合宿で自転車活動を実施できたことは夏合宿の運営に置いて非常に効果的であった。隊前後のやり取りがスムースだったのは、この影響ではないか。
また、今回の合宿はメンバーを入れ替え、各人2つ以上の活動を踏むという形式だった(山下ごめん)。必然的にPwも各人一つの活動に専念するわけにはいかず、例年よりは夏合宿前の活動の回数がとりわけ下級生において少ない人が出た。またそもそも昨年夏合宿を行うことができなかったため、上級生を含めた経験値が全体として足りなかった。この結果、例年よりも客観的に強度を落とした計画づくりを意識した(一日の走行距離・獲得標高)。しかしながら、強度は落としても合宿のルート自体の面白さには妥協しなかった。結果として、行動は毎日余裕をもって終えることができ、残ったフリー時間でライドに止まらない北海道の魅力を存分に味わえたように思う。もちろん、ライド時間が短かったのは否めないが、逆に考えれば体力的余裕は計画に比して十分あったといえ、来年は例年程度の活動を十分展開できるという積極的意味も読めると思う。
再三だが本合宿の性質、部員の経験値を総合して、本Rを含めて、消極的に各活動の強度を落とさざるを得なかった点は確かにある。だがコロナ禍で去年夏合宿を行えなかった経験をどうにか回復したいという思いで4年は本合宿を作ってきた。各活動の強度を落とすことで、逆に各人がそこまでの経験値を求められずどの活動にも参加できるフラットな状況を演じた(沢はどうしても厳しかったが)。
いうなれば1万円のフルコースではなく、3000円のオードブルをみんなで分け合うといった感じである。飲み会の会費が1万円ならビビるが3000円なら許容できるのではないか。もちろん3000円なので、1つの料理の味わいは落ちるかもしれないが、その分和食も中華もテックスメックスも料理なら何でも選び取り、おなか一杯味わえるというところだ。もちろん、今回のような形式でも1万円のオードブルを目指すことやそもそも今回のような形式をとらなければ十分1万円のフルコースを食べられたのではという指摘はあってしかるべきだと思う。しかし、72代はこの食事形式を選択し、みんなに参加してもらった。これが我々がすべきことで、また面白いと思ったからだ。そこだけは理解してほしい。
4年は新人を楽しませるために存在しているのだがどうだったろうか。2年は日数が短いながらも71代の夏合宿の一端を感じただろうか。3年は4年のこうした考えを感じただろうか。夏合宿の終わりに新居が71代への感謝を述べたこと、自分が71代の弔い合戦だといったのはこういった意味合いである。おなか一杯になってもらえたら非常にうれしい。
また今回の夏合宿計画策定実施にあたっては様々な方にご指導ご協力を賜った。とりわけ、監督・コーチの方々、北海道でお世話になった渡辺OB、大門OB、またコロナ禍に関わらず受け入れてくださった北海道の方々にはこの場を借りて、御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
72代 佐藤信太郎
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